ボランティア精神
席を譲る、募金をする、奢ってあげる、トイレをきれいに使う。これら全てボランティア精神からくるものである。あなたは当然のことだと思うことはあっただろうか。
最初の席を譲るに関して自分という要素を排除するなら、
- 優先座席
- 優先座席ではない
という状況があると思うそれでは、優先座席に座っているなら高齢者等に席を譲るのは当然なのだろうか。"優先"という言葉の意味を考えるとわかりやすい。
優先:他のものを差し置いて先に扱うこと
というのが辞書的な意味である。つまり物事の順番である。優先座席に関して考えるならば例えば4人がけだとすると、10人の人がそこに座ろうとするなら、その中で優先座席の条件に合う人が"先に"座ることが想定されているのである。もっと違う言い方をすると優先座席の1人分の席を2人が待っていて、その席が空いた時その2人のうち優先座席の条件に合う人が先に座ることを想定されているということである。つまり何が言いたいか、座っている人が立っている高齢者等に席を譲ることは想定されていないのである。私が高校時代通学に1時間以上かかるがゆえに朝はとても眠たいのであるが、優先座席に座って寝ていると、耳を引っ張って叩き起こし、席を譲れと足を蹴ってくる老害がいた。私は「ここは優先座席であり、老害専用座席ではありません。」と言ってやった。今思うと自分も若かったなと思うが、あくまで席を譲るかどうかは私のボランティア精神如何である。普段なら気付けば譲っていたが、譲るのが当たり前のような言い方をされるとそんな気持ちは全く失せてしまうのである。
募金に関してもそうである。募金自体が悪いということは詐欺でもしない限り滅多にないが、集団心理が絡むと話はややこしくなってくる。例えば社会の恵まれない人のために募金しましょうとなった時、50人中49人が募金していて1人が募金しなかったら、「こいつやべぇ」という雰囲気になってしまうのではないだろうか。かくいう私も思ってしまう気がする。ここでもあくまで募金はボランティア精神であるはずなのに、それを集団心理により強制し、強制され、募金しない人々は悪であるかのように扱われることがある。日本の没個性的教育により、疑問に思う気持ちがなくなっているからだと私は思う。
奢ってもらう問題は昨今、某女優さんがTwitterで発信したことで今ホットである。女性だからだとかいう意見はどうでも良い。私が重要視したいのはあくまで奢りたいという気持ちはボランティア精神であるということである。そこに義務はない。一緒の時間を過ごしてくれてせめて感謝の気持ちとして奢りたいという気持ちから奢る(場合が多い)のである。それを半ば当然(言い換えれば強制)されるとそんな気持ちも失せてしまうのである。化粧等で男性のために可愛くなってあげたいというのもボランティア精神なのではないだろうか?少なくとも私は化粧をしてこいと強制したことはない。