maximam271828’s diary

あなたの人生に少しの砂利を

私がブログを書いて何をしたいのか。

 そういえば書いてなかったと思いまして、暇なので書きます。

 

始めたきっかけ

 私がブログというなの日記というか、Twitterより発信性が劣ると自分で勝手に思っている媒体で思想を発信し始めたきっかけは友人にある。その友人は某有名大学で、自己顕示欲とプライドが高く、無意識に優生思想を抱えている厄介で愛すべき友人であるとかいう私もプライドが高いとよく言われるが..(2023年6月くらいに大事件が起こり距離を置いているのはまた別の話)。その彼が、私の思想をある程度評価してくれて彼がブログで某有名大学という肩書をフルに活用して発信しているということもあり、リスクと自分が得られることを天秤にかけて始めたわけである。勘違いしてほしくないのは、私は彼のことを嫌っておらず、信頼関係の上で罵詈雑言は成立しているということである。

当初の目標or目的

 私の掲げていた目標、目的は(あんまり目標と目的の意味の区別はついていない)

目標

  • 文章構成能力が上がればいいな。
  • 私の思想をいい感じで修正できたらいいな。
  • 1人でも感情を揺さぶれたら最高だな。
  • (少し欲を出して)1円でもお金がブログで稼げたらいいな。

といったもので。

目的

  • 自分の思想の言語化、整理のために文章を書こう。
  • ルーティーンワークとして生活リズムを整えよう。

といったところである。以上のように”発信”することにそこまで積極的ではないため、友人のように肩書を利用して一定の読者層をゲットするということや特定のキーワードを使うことで釣ることはしていない(この間、大谷という名前を記事に入れたところ平均の20倍の人がクリックしてくれたことには驚いた)。というのも、私は誰が言ったのかではなく、何を言っているのかをできるだけ偏見なく吸収したいと思っており、その姿勢に肩書を利用することは合致しないと考えているからである。

”皆さんの人生に少しの砂利を”

をモットーに、自分自身と皆さんにとって些細なことを考えるきっかけになることができればなと思っていたりする。

実際始めてみてどうか

 危険だなと思ったのが正直な感想である。私は目的を”発信”としていないが、こだわりたくなる仕掛けが随所にある。

  • 閲覧者数
  • 読者数(チャンネル登録者のようなもの)
  • いいね数(有料いいねもあり)
  • ランキング

私は日記、備忘録として書いているのでYouTuberのようにいわゆる数字を気にすることはないだろうと思っていたが、どうしても気になってしまうものである。理由は簡単で、自信がないから他者からの評価に依存してしまったり、1回不覚にも評価をいただいてしまうと本能としてより高次の達成感を得たいと思ってしまうからである。自身の文章力の成長のために他の方の記事を何度か眺めたことがあるが、最初の方が文章は下手だが、思いがストレートに伝わってきて面白いなと感じることが多い。最近のものになればなるほど、数字を気にしてしまって読みにくいレイアウトになったり、広告が多かったりしている傾向がある。悲しいことである。

 それと、私の性格なのか、基本的にネガティブな内容になってしまうことが多い。対外的にはポジティブであるが、本来はネガティブなので、本当の自分が出てしまっているのかもしれない。あと、ブラックジョークやエッジの効いた皮肉が大好物なので攻撃的な内容になってしまうのかもしれない。私自身は記事を書いている最中、攻撃的であったり、ネガティブな感情で記事を書いているのではなく、ただ自分の中での事実を書き連ねているだけなのだが、後で読み返してみると「これを読んで1日頑張ろうとはならないな。」と苦笑している。みなさん嫌な気分にしてしまってすいません。もちろん皮肉である。

最近の思惑

 私は恵まれている。思考が深い友人が多く、今のところ友人としてお付き合いしてくれているので、そういった人たちとただただ自分たちの思考を蒸留するためにこういったブログを書き合いたいなと思っている。みな医学部とか、某有名国立大学とかに行って将来稼ぐことが運命付けられているけれど、優秀が故に周りに言えない思想があるのではないかと。コンプラ重視が叫ばれているこの世の中において、さらに若気の至りを許さないこの世の中において、極論を吐いて、ああだこうだできる環境は必要だと思っている。その”憩いの場”を私に近い場所でだけでも作ることができればいいなと、そして1人でも同じ考えを持つ人ができれば違うコミュニティにも広まっていくのではないかと、こんなに嬉しいことはないなと思っているのである。

 力を入れすぎないようにしている。だいたい2000文字の記事を書くのに30分くらいかかり、それを校正していると2時間くらいかかる。ので校正の手順は申し訳ありませんが省いている。理由は単純で私の目的が習慣化であるからである。だいたいどこにでもどこかに至らない点を見つけて突っつきたい人がいるが、残念ながらその攻撃は私に一切効果がないので、時間の無駄である(笑)。

それでは今日もあなたの靴の中の小石になれるように頑張らずに書いていきます。

ごきげんよう

 

芋、イモる、芋っぽい...決してポジティブなイメージで使われない「芋」

 今週のお題「芋」。テーマの枯渇を避けるために今週のお題には積極的に参加しようと泣く泣く決心した今日この頃である。ただ、100人いて85人がタイピングするような"芋”そのものや種類、味についても面白くないので、斜め45度くらいズレた感じで、お題を解釈したいと思う。

 

 テーマに使わせていただいたそれぞれの言葉について

  • 「イモる」は、「緊張しておどおどすること」「怖気づいていること」を意味する言葉。元々「イモる」の「芋」は「田舎者」「おどおどしている人」を表す言葉として古くから使われていたが、昨今のオンラインゲームプレーヤーの間でも使われるようになり、ゲーム用語としても広まった。
  • 「芋っぽい」は「田舎臭い、ダサい」という意味である。「素朴さ」を褒める意味で使われることもある。芋のもさっとしたイメージから「芋っぽい」と言われるようになったようで、江戸時代には田舎出身の侍を芋侍、田舎出身の人を芋助と呼んでいた。

引用元:Google

古くから、食卓の主役級として、その味と栄養価は評価されていた芋々であるが、見た目だけは評価されなかったようである..。なぜ、食物としてのイメージと、”芋”という言葉のイメージがここまで乖離してしまうのだろうか。

 芋のように食物としての評価(そのものの人間にとっての本質としての評価)と見た目、言葉のイメージがかけ離れているものとして、

  • みそ・・・みそっかす、みそがついている
  • なす・・・おたんこなす
  • だんご・・・団子っ鼻
  • 大根・・・大根足

などが、すぐに思いついたものであり、他にもあると思う。これらの共通点として挙げられるのが、

  • 生活に密接していること。
  • 食物としての評価は決して低くないこと。

である。これは、皆がイメージを容易に共有ができ、また、仮に評価が低いとガチの悪口になりかねないからだと考えられる。上記のいってしまえば下品な言葉は、よっぽど関係性がある、もしくは知能が発達しきっていない(汚い言葉を使いたくないと考えられない)人間しか使用しない。そのことも踏まえて、ガチの悪口にはならないように配慮された食物の選出になっているのではないかと考えられる。

 しかし、使用する人たち、ここでは知能が発達しきっていない人たちとしているが、そういう人たちは当然、その言葉に込められた想い(私の妄言かもしれない)に思いを馳せることはない。

 

 結局、いつでも口は災いの元である。貴方が伝えたいことはなんなのかもう一度考えたとき、芋は侮蔑を象徴するというお角違いな荷を下ろすことができるとか、できないとか。

”にわとり”が先か”卵”が先か、それとも”天地創造”が先なのか

 よくテーマのようなものが根底にある問題がある。というか答えが決まっている数学のような問題をのぞいて、ほとんどの問題がテーマのような形を孕んでいる。と私は考える。

 

 「にわとりが先か卵が先か」・・・A

という問題に対してのガチレスはお分かりの通り、天地創造が先だというものになるのだが、このアンサーはAの問いかけに対する求められた答えではないので、というか論点がずれているので、早々に排除しておこうと思う。

 わかりやすい例がすぐに思いつかないので、日本の抱える大きな問題の一つであると私が考える、性産業を例において考えて意味ようと思う。

 性産業廃止派の意見としては

  • 性感染症の流行
  • 性的弱者の搾取
  • 女性の社会進出の妨げ
  • 性犯罪の助長

といった意見があるかなと思う。それに対し性産業容認派の意見としては

  • 生きていく手段
  • ガス抜きの役目を担っている
  • 職業多様性
  • 需要に対する供給でしかない

といった意見があるのかなと思う。(それは違うだろとか、他にもこれがあるなどの意見がありましたら、是非お教えください。)

 

 これらの意見の中でテーマに沿ったものとしてピックアップしたいのが

  • 需要に対する供給でしかない・・・B

という意見である。かなり意図的な抽出であることは先んじて謝罪をしておきたいのだが、表立ってこの意見を述べる方は少なくとも、最強のカードとしてこの意見をいう容認派の人は多いかなと思う。それではテーマに沿って"需要”が先なのか”供給”が先なのかについて考えていきたいと思う。

https://www.f.waseda.jp/k_okabe/semi-theses/1915takako_HATTORI.pdf

こちらの記事を読んで少々勉強した気になってタイピングすることにする。

 いやわからないな、現代に生まれてパワフルな母の元に育って、弱者と強者の関係性が逆転している環境でしか生活したことがないので、「女性が弱者、搾取の対象。」というのがあまり実感を持てないのであるが..。

 まあいいや。私が言いたいのはこのBの発話者が、女性である場合、「いや金が欲しいという需要に対し、男は金を払ってるだけじゃね?」と突っ込みたいし、発話者が男性である場合、「売春って違法行為だぜ?」と言いたいだけである。

 最近よく

  • 売春相手の女性に金を持ち逃げされた男。
  • 関係を清算し、あわよくば得をしようとそれまでに互いの合意で売春行為を行っていた女性が男性を訴えた。

とかのニュースが目に入ってくるのだ。本気で被害を受けている人は、売春ではなく、おそらく強姦によるものなので、どっちにしても私が言いたいことは

「どっちもどっちですくえねぇ」

ということだ。

 楽して利益を得ようと思うと、必ずリスクは存在するということだ。

 

 随分話がとっ散らかってしまったが、結局言いたいのは、どっちが先か議論するよりも解決すべき問題があんだろ。ということに他ならない。そういう意味で私は「にわとりが先か卵が先か」というというかけに対し、天地創造が先だ」と言うのだ。

「2位じゃダメなんですか」に対する個人的感想

 「2位じゃダメなんですか」

 某ベリーショートヘアーの女性議員の有名な言葉。単刀直入に言えば、”人による”。

その人が

  • 結果如何に関わらない過程を求めているのか。
  • 過程如何に関わらない結果を求めているのか。

某蓮○さんは、世界一ではなくなった、京コンピュータの研究が凍結された際に言ったそうである。化学畑の人間は「世界一であれば特許が取れるが、2位では特許が取れない。蓮舫議員はそうした科学技術の世界の掟を知らなかったのだろう」という考えだったそうだ。実際に開発の一手を担う研究者たちは結果を求め、何も知らない議員は過程を求めていたと言えると思う。

 言葉の背景はこのくらいにして、実際に2位じゃダメなのかということについて思いを巡らせてみようと思う。

 

 確かに考え方として、冒頭に紹介した2つの考え方はわかるし、それを否定するつもりはない。しかし、”順位”というものが決定される環境に身を投じるとき、ほとんどの人は結果を求めているのではないか?”ほとんど”とタイピングさせていただいたのはいわゆる”記念受験”型の人は、本人は不可抗力的に(親からの圧力、罰ゲームなど)より身を投じていると考えるからである。

 不可抗力的に身を投じた人々にとって結果は正直、副次的なものでありここで紹介した

  • 親からの圧力
  • 罰ゲーム

の望む、順位を競う本気の人たちの中に投げ込まれることによる懲罰の目的は達成されている。つまり過程を味あわせることは達成されているのである。

 それでは順位を競う環境における人々、つまり、結果を求める人々にとって「2位じゃダメなんですか?」という言葉はどのような意味があるのだろうか。

 

 結果を求める→より良い結果を求める→一番いい結果を求める→1位

という変換が許されるのであれば「2位じゃダメなんですか」という言葉は空虚な言い訳のように感じる。実際そのような言葉を公で発している人は見たことがない。もちろん何の取り柄もない私からしたら、2位でもすごいことだと思うのだが、当人たちが2位以下に甘んじることを良しとはしていないだろうから、そこに触れるのは違うのではないかと考える。結局国内では、偏差値的に東大理科三類以外は低学歴ですし。という発言に、今まで本文を読んで、学歴厨と反応してしまう人は、本当に頭が悪いんだなと思う。

 

 「2位じゃダメなんですか」→「2位以下でも良い」の対偶をとってみる。

 これは「2位以上でなければならない」だと思うが、ここは便宜上「1位でなければならない」と置き換えてタイピングを進めていこうと思う。

「1位でなければならない」

どうだろうか、これも究極、人によるのだが、先の「2位じゃダメなんですか」という考え方より、より限られた人が抱える、また切羽詰まった考え方であると考える。もっと簡単にいうと、常に1位を争うような人のみが持つ考え方であると思う。ここで強調したいのは"1位を争う当人が持つ考え方"であるということだ。私はそうであるべきだと思うし、それを周りがとやかくいうことではないと思う。

 結果、「1位でなければならない」という考えは

  • 当人のみが持つべき考え方。
  • 外野があれこれ思うことではない。

ということになる。対偶が真であればその対偶もまた然りなので、「2位じゃダメなんですか」という考え方は同じく、

  • 当人のみが持つべき考え方。
  • 外野があれこれ思うことではない。

であると思うし、当人が「1位でなければならない」と考えるのであれば、それをとやかく言うべきではないと考えるのだ。

結論。戦争はやめよう。

こぼしてしまったのか、こぼしたのか、それともこぼさざるをえなかったのか。

 今週のお題「こぼしたもの」について参加する。

 先週、ちょっとおしゃんなカフェにて、とってのないグラスに入ったアイスコーヒーを姿勢良く嗜んでいた。スマホを触っていた。少し位置の高い机だった。高かったんだ....。

 

 もちろん、このお題に参加しているので、コーヒーをこぼし、その店の店員さんがすぐさまどのくらいコーヒーが入っていたのか聞いてくれて、ほとんど満杯に新しいコーヒーをくれたことはこの話の本筋ではない。ありがとう。

 

 このテーマにもあるように、ふと私が考えたのは、

  • 無意識だったのか
  • 能動的だったのか
  • 強制的だったのか

ということであり、一般的に見てどのように捉えられかねないのかということだ。私は、決してわざとこぼしていないが、これが仮に店員さんに対して悪意がある場合どのように相手は捉えるのだろうか。と考えなくてもいいことを考えてしまった。

 

 冒頭にも書いたように、私は明らかにコーヒーに集中していなかった。コーヒーに集中しないという選択を”意図的に=能動的に”していたのである。もちろん、全員が全員私と同じように、コーヒーに集中していなくてもコーヒーをこぼすという結果に結びつくとは考えられない。では、確率論ということだろうか?それとも熟練度?

 

 私がこのような思考をしていてとても面白いと思ったのは、起こった事象が、意図的ではないにしろ、その結果に至る行動は結構意図的であり、結果論的にはなるが、反省し、再発を防止することができるのである。つまり、相手によっては、相手との関係性によっては”意図的”であると指摘される場合があるということである。私はお店で、すぐさま謝罪し、所持していたハンカチで他のお客様にコーヒーの被害が及ぶことを防ぎ、退店時に何度も謝罪とお礼を伝えたため、結果論的に”意図的”とは捉えられていないだろうが,,,。

 

 なんにせよ、ハンカチ持っててよかった〜ということである。

結果論で世の中は溢れている→仕方ない

 世の中、喉から手が出るほどに羨ましく感じる、またはそう見える"成功者”が溢れているように思える。往々にして、各分野において”成功法”や、”羨望の存在になる方法”が溢れている。果たしてどのくらいの人がその方法を信じ、行動し、同じような”成功”を掴んでいるのだろうか。

 

 結論。”いない”のではないだろうか。もしくは、”成功”していても、前述の”成功法”に倣ってというより、その人が持つ資質によるものが多いのではないだろうか。

 

 これは仕方がないことなのである。世の中の”成功法”を発信している方々からすれば

  • もし真似して、同じように成功したら、パイの取り合いになるので困る。
  • なにか努力をしているときに、結果を予測して行動しているわけではない。
  • そもそも、生まれ、育ちも完璧に真似ることは不可能。
  • 結果論。

なのだから、正直、成功するわけないし、成功されてしまうと困ってしまう場合が多いのではないだろうか。かくいう私も、何度もプログラミング技術の習得に苦心したが、結局、ゴール。それを細分化した、短期、中期的な目標設定の方法がわからず、何度も挫折した。勉強方法は書いてあるではないかYouTubeに掲載されているではないかとおっしゃる人はいるだろうが、最終的な方法を(手取り足取りを、モデルとして)掲載されている方には出会ったことはない。そんなことまで求めるなとおっしゃる人もいるかもしれないが、今回の記事のテーマは”結果論”であって、その指摘は的外れである。

 

 世の中の”成功者”は、大概、成功しようとして、緻密に計算してその結果成功したわけではない。その人の”成功”という結果にストーリーを後付けしているにすぎない。計算している人がいると主張する人がいれば、「あなたは両親、生まれる時代、生まれる地域も、お腹の中で計算したのですか?」と聞いてみたいものである。

 

 結局、”成功”というピラミッドの頂上から見下ろして「この階段は上手く作れた。」と懐かしんでいることと変わらないのである。もちろんピラミッドは緻密な計算をもとに精巧な設計図を作成し、神経を削って建設されたのだろうが、残念ながら、”成功”という設計図は存在しないのである。

 

 成功法を真似して成功しないのは仕方ない。当たり前のことなのである。

ただ、どのようにして自身の中の成功の定義を自身が幸せと感じるものに変えるかの方法は結構世の中に散らばっている気がする。

 

”楽しさ”が約束されている場所に行く勇気

 皆さんはディズニー派ですか?USJ派ですか?

 私は、今まで女性とお付き合いする中で、上記の場所に行きたいと言われたことが何回かありますが、一度もデートで行ったことはありません。皆さんは特に、学生時代のようなお金があまりない時期に行ったとして、心の底から楽しむことができた経験があるのでしょうか。

 

 私は、決して”楽しくない”と否定するつもりではないことを先にお伝えしておきたい。その目的地が有名が故に、楽しさの情報が蓄積されており、天候、季節、混み具合によって、いく前に想定していた”楽しさ”というハードルを超えることが難しいのではないかと思ってしまうのだ。上記した、目的地は、ある程度入場料がかかり、”高い金を払ったから、楽しかったのだ”という認知的不協和の解消という過程により楽しかったと勘違いしているだけなのかもしれないと考えてしまうし、その考えに囚われてしまっている時点で楽しむことは難しいと思うのである。

 

 私はなんとか、時代に置いていかれないようにインスタグラムなるものをやっているが、そこにちょくちょくディズニーだとか、USJだとかの投稿が載っていたりする。これはSNSの使い方も関わってくるのであるが、結局、以上の有名観光所に行ったということを自慢したいのではないか。「お前らにはいないイケてる友人が私にはいるのだ」ということをアピールしたいだけなのではないか。とか思ってしまうのは心が貧しいことの証明ではあるのだが...。

 

 以上のことは具体例で、私は人と旅行することが結構苦手である。この「人」というのは

  • ただ一緒に居られればいいわけではない。
  • 話が続かない。

存在だからこそ、話題になる観光名所にわざわざ行くという手段を取る必要がある存在だと私は考えているのである。"大阪人はわざわざ大阪城に観光しにいかない"というように、私は観光の対象として、観光地を巡りたくないのである。日常の風景に溶け込む異質なものに新鮮な驚きを感じたいのである。というのは情報社会において非常に困難なことになってしまった。

 結論、観光地はネットで調べたらいい。ネットの画像でもカメラの技術などが進んでそこそこ現地に行ったときと同じ感動を得られる。たぶん。それか、その”こんなもんだろ”というハードルを容易に超えてくる、”真の観光地"に行ってみたいものである。

優れた上司についての考察

 私のアルバイト先の店長は、自身の半生に圧倒的自信を持っているため、よく、私たち大学生に”仕事”についての考え方を説いてくれる。いや説かれている。

 その店長は主に

  • 仕事を始めたときに気をつけること。

を、店長の体験に基づいて教えてくれる。アルバイトの中には当然、大学1年生の方々もいたり、店長に対して懐疑的な方々もいるのであるが、私はまだ見たことのない社会についての予習として、良い部分は良い。悪い部分は悪い。違うことは違うのでは?と思って聞いている。

 

  • 仕事を始めたときに気をつけること。
    •  一番責任が少ないときであるから、倫理的間違いを犯さないようにして、なんでも挑戦してみること。
    •  様々な分野で、できる人の真似をし、自身の能力を上げていく。
    •  とりあえず技術的な面で、”新人のレッテル”がなくなるまで多少の疑問はぶつけず頑張ってみる。

といったところである。概ねそうだなと思うのであるが、最後の一つに関して、相手に気を遣うことができる人であればあるほど、ストレスが溜まっていくのかなと思う。

 なぜかというと、新人期間を設けていたとしても、人それぞれには成長速度があり、新人期間を終わったとしても、その習熟度の保証にはならないし、「今日から新人扱い終わりね!」と言われても、新人だからこそ、どの部分で新人を脱却することができたのかわからないのではないか。こういう気持ちを持って働き、自身で脱却できたと思って意見を言ったとして、上司から「お前はまだ新人なんだから偉そうにするな。」とか言われようものなら、今後意見を言えなくなってしまうことがほとんどだろう。

 そもそも、最近、大人の方とお話しさせていただく機会が多々あるが、彼ら曰く、「自分が矢面に立ってまで、現状を変えようとしたり、意見を通すために根回しするような根性があったり、責任感がある人は少ない。」そうだ。一つ前の記事でも書いたが、なまじっか日本では頑張らなくても生きていけたり、怒られる(私は指摘と叱りは違うと考えているが)ことに慣れていない若者ばかりだという。未熟が故にちょっと指摘したら、モラハラパワハラと、そこだけ反応が早すぎるため、管理職世代の大人の方々は困り果てているそうだ。

 

 さらに店長の言葉で疑問を持ったものがある。

「仕事ができる上司に当たると、仕事が回ってこなくて、チャンスがないよ。」

と。最初、何も考えずに聞き流していたため、「そうなんかな〜」と思っていたし、文面だけ見れば賛成する人も少なくはないと思う。が、果たしてそうなのだろうか。もちろん仕事ができる人に仕事が集まることは承知しているが、店長の言う”仕事ができる上司”は中の下だと私は考えている。

 ここで言う仕事は俳優業などの個人の実力のみがものをいうものでないことは先に断っておく。

 上司は社長でもない限り、その上司が存在する。そして、部下がいるということはチームで仕事をするという理解をしている。となったときに上司Aがその上司の上司Bから期待されることはチームの売り上げを最大化することである。私は真にできる上司Aであれば、自身のパフォーマンスが仮に50%に落ちたとしても、合計のパフォーマンスが110%になることを目指すと考える。また、再現性の観点で言えば、自身のメソッドを余すことなく部下に伝え、上司Aジェネリックを増やすことが肝要であると考える。ここで店長と、私のできるビジネスマン像を簡略化して下に記す。上司Aが部下ができる前の売り上げを1000とし、部下が3人できるとすると

  • 店長の言うできる上司
    • 上司Aの売り上げ:1000、部下1:200、部下2:200、部下3:200
    • 合計:1600
  • 私の言うできる上司
    • 上司Aの売り上げ:500、部下1:400、部下2:400、部下3:400
    • 合計:1700

以上のように考えたとき、上司Bから求められる像として優れているのは上司Aだと思う。もちろん上記の数字の内訳は簡単のために設定しているのであって、結局チームの合計が少しでも上昇すれば良いのである。

 次のような意見もあると思う。部下ができたことで「頑張って1人で売り上げを1200にすればいいんだ!」と。果たしてそれは再現性があるだろうか。上司Aが上司Bの立場になり、部下1が上司Aの立場になるとき、同じように部下1は120%のパフォーマンスを叩き出せるだろうか?

 さらに、背中で見せたらいい。部下が自分の仕事ぶりをみて吸収すればいい。という意見もあるだろうが、部下はあなたならではの、例えば、身長が高い、美形、圧倒的話術を才能として持っているだろうか?再現性の観点からこの意見も私には響かない。

 

 私のアルバイト先の店長も結局、個人事業主で、社長のようなものだから、上記の考え方に至ってしまうのだろう。しかし、店長にはいいところがある。それは私たちの話をとりあえず聞いてくださるところである。本日もシフトに入っているので、ここに書いたような意見をぶつけてみようと思う。