maximam271828’s diary

あなたの人生に少しの砂利を

ラベリング

皆さんは自身を商品として売り出すとき、どんな表示をしますか?

 

私の場合:男、大学生、日本人、太め、、

 

のように表示するのでしょうが、果たして、本当に「男」であり、「大学生」なのでしょうか。

 

 最近ある方にお話を聞く機会があり、「男は」や「女は」などのラベリングがなくなることが差別がなくなったゴールかもしれないという考えと出会いました。これってつまりどういう状況なのでしょうか。

 

 あまりに話が壮大になりすぎてもアレなので、例えば日本の小学校でラベリングが無くなったらということを考えてみたいと思います。

学年がなくなる。

男女がなくなる。

 とりあえず代表的なラベリングで無くなったことを想像しやすいのは以上でしょうか。ゆるく考えてみたいと思います。

 

学年がなくなる。

 学年で分けるのはつまり小学校においては誕生年で分けるということになるかと思いますが、これは身体的、精神的成熟度が、年齢によって大別しやすいということが大きいのかなと考えています。特に日本は儒教の影響がまだ色濃く残っており、年功序列や、年齢に則した礼儀作法などが重んじられています。

 では学年がなくなるとどうなるのかということですが、まず、学年に則したカリキュラムが成立しなくなるということが挙げられます。学年という切り方のおかげで、先生の数を海外と比べて少なくできているのかなと考えますが、生徒によって様々なカリキュラムを作るとなるとかなり大変そうですね。またこれに伴い、生徒にとっても具体的な到達目標(カリキュラム的な)を設定しづらくなります。自分で到達目標を作るということは立派なことのようにも感じますが、考えなくて良いからこそ疑問を持たずに無心に頑張れたということもあるかもしれませんね。(←それが良いとは考えていない。)

 とりあえず、学年がなくなってしまうと、足りていない教員がさらにたらなくなるでしょうし、知識以外の情操教育が疎かになってしまうことは明白です。

 

男女がなくなる。

 小学校で男女が分かれているのはトイレ、更衣室くらいでしょうか、男女の区別に関してはなかなか軽くは触れづらいのでまたの機会にも触れたいと思いますが、トイレ、更衣室の男女の区別がなくなると困ることは明白ですね。

 

 以上のことで何が言いたいかというと、ラベリングにより助かっていることも多くあるということです。しかし、この「助かっている」という表現からもわかるように、例えば小学校教育においては「個人の成長」よりも「子ども」という集団を次の中学校というステージに上げるために「より効率の良い方法」を選んでいるだけのように思います。一人一人の成長の段階に則した教育ではなく、なんだか「大人の都合」のように思えますね。

 

 海外の考え方が入ってきており、またインターネットの普及により様々な教育のあり方に触れる機会に増えてきました。上から「お前はこのグループだ」と決めつけるのではなく、個人で「自分はこの分類に近いかも、この分類に興味がある」と考えて生活することが当たり前になるような世の中になるといいですね。