maximam271828’s diary

あなたの人生に少しの砂利を

現代の多くの大学生にとっての「大学」

 私が大学生活を送らせてもらって、就職活動をしている中で、疑問に思ったことをタイピングしたいと思う。

 私は、公立高校だとトップの偏差値を誇る高校の学科に通っていた。そして、某日本一の大学を目指し、落ち、そこそこの有名私立大学に通わせてもらっている。

 が、しかし、本来の”高等学校”や”大学”が求めているような”学びたいことがある”という意識でこういった選択をしてきたわけでは全くもってない。

 

 ひと昔や、海外の大学だと、高い学費を奨学金なり、アルバイトなりをし、さらに食費、娯楽を切り詰めてなんとかしていたようであるが、日本は大学に行ったという資格を取得するためだけのいわゆる”Fラン大学”の乱立や、医学部などを選択でもしない限りなんだかんだやっていける親の所得(もしくはなんとかするため共働きを選択しているのかもしれないが)のせいで、「なんとしてもいい大学を卒業し、能力を身につけていい企業に入る。」という熱意というものは全く感じられない気がする。ただ”お金”を目標とするのならば早いとこ企業し年商1億程度でイキっている人もいるが,,。

 これは日本企業の”ポテンシャル採用"というシステムも原因の一つだと考えている。なんの能力も持たない自称

  • コミュ力がある。
  • 論理的思考能力がある。
  • ストレス耐性がある。

といった、定量化できない、世渡り上手しか得をしない基準で採用をするがために、企業としても採用コストをそんなにかけないし、学生も確固たるスキルセットを取得しようという発想に至ったりしないし、大学での研究テーマと180度違う内容の職種を選ぶことが多々ある。

 

 私は就職活動中に上記の

  • 求められるもの
  • 大学で学んだことを活かさないでいいポテンシャル採用

が現在、大学が”就職のための予備校”と化している理由であると思う。

 ここで、一部の知ったかぶりの読者の方から、すべての企業がそうではないとか、すべての学生がそうではないという反論が起きると思う。確かにそうである。

 しかし、一般的に理系学生の方が文系学生よりも学費は多くかかるが、その差を回収できるほどの専門職があるようには思わないし、学んだことがそのまま繋がっていそうな弁護士や医者も結局、弁護士資格、医師免許といった”資格”を取ることが目標と考えれば大学を”資格取得予備校”と考えても差し支えないのではないだろうか。

 かといって私はそれを否定するわけではない。なぜなら、私が通っている程度の大学を卒業することができれば、そこそこ生きていけるからである。甘い汁を吸わせていただくのである。おそらく企業の営業利益などを鑑みればもう少し新卒からもらってもいいと思うし、すべての企業の採用活動において交通費を支給しても良いと思う。

 

 コロナ禍によるオンライン授業の普及、AI技術の進歩、大学生が求めるものが"知識”でなく”出会いの場”になってしまった現在、ますます学生の質は落ちてくると思われる。その中で一握りのやる気のある学生も、大学は相対評価よりの絶対評価であり、あまりにも学生全体の成績が悪いと点数調整が行われるため、そのやる気も続かないだろう。

 結局、学生時代をモラトリアムだ!と我が物顔でいい、飲み会ばかりしている世渡りの上手い人間が、いい企業、いい立場になり、悪循環は無くならないのである。

 少し頭が良ければ、頑張らなくていいということがわかるのだから。

 

スマホ依存症からの解放

 「私はスマホが必要不可欠な世の中になったから〜..」

 という言葉には真っ向から対決したいと考えている。というより、対決する必要があると思っている。

 というのも、スマホを持つ理由としてよく挙げられるのが、

  • 最新の情報に触れ続ける必要がある。
  • コミュニケーションにスマホが不可欠である。
  • 位置情報を把握する必要がある。

などであるが、 

 

  • 最新の情報に触れ続ける必要がある。

 あなたたちは、そんなにしょっちゅうニュースを見ているのか?見ているとしても、正確かどうかもわからないSNSの情報ばかりだろう。もちろんSNSの情報が役に立つときはあるし、緊急時に情報の正確性を突き詰めることができないことはわかる。しかし、それこそラジオでよくないか?スマホをの必要条件にはならない。

  • コミュニケーションにスマホが不可欠である。

 あなたたちは、公的なやりとりをLINEでするのか?未だにパソコンメールだろう。確かにこのことに対しての弊害は、よく言われていることなのは間違いないが、会社内での管理体制、問題発生抑制のために必要なことではないだろうか。もう一つ聞こう。どうせ、未読無視しているだろう。このどこにスピード感がある?なぜ必要不可欠と言える?急ぎのときは電話してください。という人間で、一回で繋がる人がいた試しがないのであるが....。

  • 位置情報を把握する必要がある。

 これはおそらく、親御さんの意見になるのかなと思う。昨今社会が複雑化し、起こる問題も複雑化している。さらに、共働きが増え、何か問題が生じたときに、それをいち早く把握するための手段としての安心材料なのはわかる。でもそれは親のエゴではないか?大人の支配欲ではないか?極論的に超軽度のネグレクトと言えなくはないか?子供の安否が気になるのであれば、信頼できる環境を構築する努力をし、周りに助けて貰えば良くないか?「お姑さんとはそりが合わないの」とか言っている場合ではないと思う。

 

 私は、母と近所を散歩をしているとき、ふと気がついたことがあった。歩きスマホをしている人が多いのと、特にその大部分が女性だということを。母は最初たまたまだと言っていたが、散歩が終わる頃には、私も女性として気をつけるようにすると言っていた。なんだ女性蔑視の内容かと思うかもしれないが、そうではない、昨今の特に日本においてのみよく見受けられる、”マッチングアプリ(パパ活)"事情に関してである。もちろん、スマホがないときにも、掲示板などを使ったデートは存在していたと思うが、スマホの普及によって、制御不能なほどに市場は膨れ上がっている。その中で感覚が麻痺し、自分を安売りしてしまったり、元の感覚に戻れなくなっている女性が少なくないと聞く。

 

 人間は弱い生き物であり、楽ができるのであれば徹底的に楽をしてしまう。それがたとえ将来破滅に繋がる道であっても、自分だけは大丈夫と誤信してしまう。どれだけ人生経験がある大人であっても、スマホが登場して20数年であるため、スマホとの付き合い方に関しては初心者と言ってもいい。むしろ、生まれたときから身の回りにある子供達の方が玄人である。その”玄人”たちにいくらスマホの使い方を説いても釈迦に説法であるが、なんとか当たって砕けて、”21世紀の欲望源”との向き合い方を共に考えていく必要があるのではないか。

  

実家に帰ってポイント活動を名目とした散歩をしていたときの話。

 この二週間ほど実家生活を謳歌していた。

 

 父とは父の趣味の釣りに2回ほど行き、300匹ほどを釣り上げるとともに、戻ってきたときに自分の趣味として楽しめるように、手ほどきをうけ、母とは毎日のようにお買い物であったり、散歩をし、兄とは、最近彼が凝っているジンをメインとしている餃子居酒屋に飲みに行った。

 

 コロナを言い訳にさせていただくが、心からの友人がなかなか大学でできなかったこともあり、利害関係のない人間は高校の同級生を除けば、これからできることはないのかもしれない。と、しみじみ思ったりした。

 ということもあり、”家族”という関係性は、私にとっては、とても心地よいものである。思春期も終わり、父、母、兄の偉大さを大学生活の中で、再確認した今、「ありがとう」を言う気恥ずかしさも、「ごめん」と言えないプライドも私にはない。「他人を変えようと思ったら自分がまず変わりなさい。」という母の言葉をとても顕著に味わうことのできた濃密な2週間であった。

 

 そんな私の家族は、もう”60歳”の大台が間近に迫っていることもあり、健康にとても気を遣いだしている。食生活で言えば、毎朝、サワドゥーブレッドを食べ、夜ご飯は炭水化物を抜いている。”自称成長期”の私からすれば多少物足りないことはあるが、母の料理はいつもレパートリーが豊富で飽きることなく食べさしてもらっている。さらにお題の通り、ウォーキングを毎日しているのであるが、ウォーキングをメイン目標にしてしまうと続かないということでポイント活動をモチベーションに継続している。父曰く、ウォーキングがキツくなってきたら、ポイント活動を主目的とし、ポイント活動がキツくなってきたらウォーキングを主目的とすることにより、継続することができているとのこと。結局メンタル管理が肝要なのですな〜。

 

 しかし、そんなポイント活動をしていると、チェックポイントでスタンプを取得する方式であるということもあり、家族で忌避していた"ポ○モンGO"状態になってしまっているのである。唯一の救いはゲームのように道端でもモンスターがでるというものではないため、しっかり公園でケータイを見るというルールさえ守れば危険はないのであるが、なにぶん全員めんどくさがりやなため、公園の外の道路で電波が届くところを探し、ドヤ顔をしている。帰る前に公園内でやるように約束してきたのはいうまでもない。

 

 年齢を重ねて、社会との関わりが薄くなればなるほど、自分が周りからどう見られているかを気にしなくなり、他者のそれを攻撃するようになる。と、悲しいかな両親を見ていて考えさせられる。ある大人の友人の言葉を借りると"敵を作り、あれこれ考えることによって老化を防いでいる"そうであるが、もう少し心穏やかに生きてほしいと願うのは若者のエゴなのだろうか。

若いってすごい

 幼い頃は炎天下で大運動していた。

 

 この最初の一文を書くとき、「私の若い頃は..」と書こうとしている自分に驚き、笑ってしまった。歳は取るもんじゃないですね笑。

 

 最近は、夏が来るたびに最高気温が更新され、子供達の遊びに”電子機器”が加わり、直近ではコロナさんが大暴れしていたため、上半身裸で走り回る小さい子とかはめっきり見なくなったが、少なくとも私は炎天下で4時間くらいぶっ続けで鬼ごっこをやっていた記憶がある。

 

 幼少期に限らず、部活動もそうである。地方公立の学校だと、体育館に冷房などまだついていないだろうから、あの灼熱の蒸し風呂の中で、青春を繰り広げていたのだな〜感慨深いです。

 

 と感傷に浸っているところで、ふと思ったのは、最近、外で遊んでいる子供たちは少なくなったな〜ということです。もちろん、地球温暖化?などにより、外で遊ぶことに対して相当なリスクがあることはわかりますが、何だか寂しい気もします。

 

熱中症になるから外で遊ぶのはダメ」と言うのではなく、熱中症にならないように、こまめに水分をとることを教えたり、木陰にいることを教える必要があるのではないかと思いますが、その大人が、冷房のガンガンに効いた場所で仕事をすることに慣れてしまって、実際に外に出て子供に付き合う体力がなくなってしまっているのかなと思います。

 

結局何が言いたいのか。「若いってすごい」。というよりも、若い人たちを”すごいまま”でいさせてあげられるような大人になりたいと言うことだ。

 

 まだおじさんとは言わせないが。

エスカレーター止まってみるか歩いてみるか

 兵庫県京都府ではエスカレーターは、左側通行で、それ以外は右側通行らしい。

 

 という言葉はエスカレータには当てはまらないようだ。私の兄は、とても素直な人で、かつては、エスカレーターを、道を塞いでいる人の後ろで、とても大きな咳払いをしてまで通行していたが、今は、急いでいるのであれば、階段で行けという考えになったようだ。

 

 そう、エスカレーターでは立ち止まらなければならないのである。

 皆さんもご存知だとは思う。もしくは、みてみぬふりをしてきたと思う。ただ、荷物などで、エスカレーターの”通り道を塞いで”いて、後ろから邪魔だと言われたとき、合っているのは自分だとしても、何だか申し訳ない気持ちになるし、実際に、頑張ってエスカレーターでは立ち止まることが正しいことを説こうとしても、それこそ、ルールを破るほどに相手は急いでいるわけで、最悪、争いになる未来が見える。

 

 優先座席は優先であって、専用ではない

 私が中学生の時、ディベートの授業で、”優先座席に座るべきか否か"と今思うと、正気を疑うテーマが与えられたことがある。このディベートの授業において40人クラスで1対39だったのだが(私が"1"だったことはいうまでもない。)、前述の”優先座席は優先であって、専用ではない"この一言で一蹴できるかに思えた。結果から述べると決着はつかなかったのであるが、私は

  • 優先という言葉の意味を同世代が理解していない。もしくは理解していても納得できない。
  • "ボランティア精神"である”譲る”という行為が学校教育によって"強制”される。

という事実に驚いた。教師からのお題が”優先座席、必要か否か"であれば、もう少し、すっきりとした結末が望まれたのに、教師がおよそ”先生”と呼ぶに値する代物ではなかったということである。

 

 具体的な例をもういくつか思いつきたかったが、今は思いつかないので、また更新したいと思う。

 結局、世の中『甘え』で、やらなければならないことが、やった方がいいことになり、やりたくないことになり、やがてやってはいけないことになる。

 エスカレータの場合だと、甘えで、親切で道を開けてくれていたことを当たり前に思ってしまうということだろうか。

 甘えてもいいが、甘えていない人を頭が硬いと攻撃することだけはやめたい。

 

2023/10/23 更新

人は不合理な生き物である。

 私は17:00から営業開始の個人経営の居酒屋でアルバイトをしている。

 私を含め9人の学生がそこで働いている。時給は1300円で、今年の10月には1400円、経営状況を見て、12月からは時給が1500円になるらしい。しかも全員一律で。

 お客様からはアルバイト学生が全員高学歴な居酒屋として認識されているらしいので、一応全員物事に対する理解力があるという前提でお話を進めていきたい。

 私は、同僚から責任感が強く、とても論理的で、自分を律することができ、行動力があると評価されている。というか言われている。そう言われるいくつかの例を話してみようと思う。

 

絶対に遅刻しない

 めっちゃ普通や〜んと思った方。正解です。普通のことです。しかし、”普通”の大学生にとって遅刻しないということはどんな難しい試験よりも大変なことであるそうだ。少なくとも私のアルバイトする居酒屋では。実際、私以外のアルバイト学生は、先輩、後輩に関わらず、必ず10分程度遅刻する。彼ら曰く、

  • 「今日、この瞬間楽をしたい」
  • 「10分遅刻しても、給料に影響はない」
  • 「営業開始時点は、そんなに忙しくないことが多い」
  • 「君も、損をしているから遅刻したらいいよ」

とのことである。極端な例であって欲しいとは思うが、少なくとも、12年間の、義務教育+高等教育で”おとな”が血眼になって教えていた、”5分前/10分前行動”の教えは彼らの中には何ら残っていない。ここに学校教育の無意味さを見出すのは少し酷な話かもしれないが..。彼ら全員学歴で言えば、早慶上智以上の学歴の持ち主たちである。

今日、この瞬間楽したい

 わからないでもない。昨日の飲み会の二日酔いがまだ残っててとか、締め切りギリギリのレポートがあってとか、ついさっき彼女に振られてとかいう日には、10分程度の遅刻、仕方がない。が、私には”10分程度の今日の甘えより”も、”絶対に遅刻しない、欠勤しないというレッテルを貼られている状態での無断欠勤"の方が圧倒的に利益があると思うし、”社会人になってからの遅刻癖解消のハードル”の方がよっぽどきついと思うのだ。

 私が遅刻をしないというただそれだけのことで、周りの人は、責任感があると勝手に評価してくれる。店のために私が行動していると"勘違い”してくれている。とてもイージーだなと思う。

 私が遅刻しない理由は”親の教育のおかげ”が大半を占める。しかし、もう一つの理由が周りの大学生には衝撃的だったらしいから紹介したいと思う。それは結局、

自分を守るためである。

 毎回、遅刻せずに出勤し、どうしても欠勤する必要があるとき(コロナ禍での発熱)に分かり次第、迷惑をかけることに対する謝罪の旨を連絡することを、継続することにより、

  • 責任感があると勘違いしてもらえる。
  • 本当に精神が病んだり、通勤中に事故に遭って時間通り出勤できない場合、「あれっ、あいつ今日遅いな〜」と思ってもらえるかもしれない。

ということである。こっちの方がよくないか。自分が正常な時に、毎回10分甘えるより、きつい時に自動的に心配してもらえる方がよくないか。ということである。

 

10分遅刻しても、給料に影響はない

 これを言われたときは、衝撃を受けた。アルバイトだから、そんなにリスクを背負わない職種だから良かったものの、この人は将来の職場でも同じことを言うのかな?と衝撃を受けた。しかも、責任感があるねと、私に言ってきた話の流れの中でのことだったから、その人の言う”責任感”はとても皮肉めいた言葉に聞こえ、かつ自身に責任感がないことを暴露しているようなものだなと思った。繰り返すが、これがアルバイトだったから良かったものの(いやアルバイトとか、仕事とか本来は関係ないと思うが、自分に言い聞かせているのだ)、一緒にフルタイムで働くことはできないなと感じた次第である。

 

営業開始時点は、そんなに忙しくないことが多い

 そんなことはない。お客様がいなくても、トイレ掃除、机の清掃、醤油や割り箸の補充などなどやるべきことはたくさんある。さらに、17:00ちょうどから時給として給料をもらっているわけだから、その分の働きをする必要があると思うが、これは非常に難しい。

 彼らは高学歴で、努力をすれば、このアルバイトの2倍、3倍の給料をもらえるかもしれないのである。彼らからすればこの店を”選んであげている”し、アルバイトというものの性質が学生からすれば”いかに楽をして稼ぐか”であるから、なかなか”しっかり働く”ということができない場合が多い。

 こんな価値観でも大学を卒業すれば、彼ら高学歴帯の人たちはちゃんと就職すれば、自動的に時給換算2500円になるのだから、日本社会はよくわからないな〜と、正直ものがバカを見るな〜と思っている。

 

君も、損をしているから遅刻したらいいよ

 いや、呆れた。100歩譲って、彼らのユニークな価値基準において、私に対し、「損してるよ」というのはまだわかるが、「君も遅刻した方がいいよ」というのはどういうことだろうか?

 数学の相似を概念的に応用して、遅刻することが社会的に”悪”であるとすると、

遅刻すること:犯罪=君も遅刻した方がいいよ:君も犯罪したほうがいいよ

という概念式が、私の中で完成してしまう。もちろん大袈裟だということはわかっているが、某国のように、人を殺すことが正義となる戦争中において「君も殺した方がいいよ」と言われたら彼らは人を殺すのだろうか。

 

 となどと、書いてみたが、どうだろうか。会社に遅刻する人たちの言い訳は、渋滞、子供、夜型、通勤電車の事故、訃報、体調不良...と多岐にわたる。あなたが将来”言い訳”する時にexcuse(名詞だと言い訳という意味で動詞だと許すという意味)してもらえるように、自分のキャラを作り上げることは自衛の手段として有効だと思う。

 

ちなみに私は30分前行動である。

 

遊具がおもんない

 最近公園に立ち寄ると、砂場に柵があることが多い。

 私の一番公園で遊んでいた時はもちろん砂場に柵はなかった。し、ジャングルジムやよく膝を強打したり、頭をぶつける遊具があったし、滑り台は逆走するものだと思っていた。またコンクリートの壁があり、よくサッカーボールやバレーボールで壁打ちをしていた。

 今、少なくとも通常状態で危険がある遊具は全くと言っていいほど存在しなくなっている。私は公園の遊具で事故が起きたときの責任の所在は存じていないが、事故とはいかなくても怪我ましてや膝が腰まで上がらない大人目線で危険な遊具に対してクレームがよく入るようになったようだ。というか、今までも入っていたのかもしれないがそれによく対応するようになっている。

 例えば砂場に柵を設ける理由は、犬、猫、その他の野生動物が侵入し、糞尿をすることを防ぐことやガラスの破片などから子供達を守ることを目的としているそうであるが、これって親の仕事じゃないのだろうか?もしくは子供達がその”リスク”を経験し、いい思い、悪い思いをし、学んでいくものではないだろうか。昨今、社会が複雑化し、様々なリスクが潜んでいることや、共働きの家庭が増え、監視の目が行き届かなくなっていることは理解するが、それは子供たちの”経験”や”成長する機会”を奪ってはいないだろうか。

 現実問題、親の目が届かず、そのために仕方がないという意見は100歩譲る。が、公園に一緒についてきて、スマホに齧り付き、問題が生じれば、管理元の責任というのはお門違いではないか、自分の子供達が危ないことをした時に、その公園にいる”おせっかいな”大人が注意してくれることに逆ギレすることは、果たして”個人主義の台頭”と単純に片付けて良いものだろうか。

 最近の若者は、想定外のことへの対応、上司からの指摘に非常に弱いとされているらしい。これを若者たちの責任と捉える”おとな”は多いだろうが、今まで記述してきたことを考慮すると、そういった能力を育む場を”子供たちのために”という建前で奪っているのではないか。大概の場合”子供たちのために”とする”おとなたち”の目的の本筋は”子供達のため”であることは少ない。危険=スリリングな遊具をなくすことの本当の目的はうるさいガキたちを公園に来させないことなのではと、薄々勘づいていたりする。