maximam271828’s diary

あなたの人生に少しの砂利を

子供の声が”騒音”な世の中。

 最近、新聞で”子供の声”が騒音として扱われているという記事を見た。

 どうやらこの記事によると、公園に住む、子供が近縁にいない人の多くにとって子供の声は耐え難い”騒音”らしい。近くに保育園ができること、児童公園ができることに対するアンケートをとったところ、9割を超えてネガティブな意見が見られたという。軍事基地移設ならまだしも子供の声に対してこういう状況とは、少子高齢化が進むわけである。

 などと善人ぶる気はない。かくいう私も電車に乗っていて疲れ果てているとき、駄々をこねる子供の声に対してうんざりした記憶がある。子供はうるさくするのが仕事だと、個人的には思っているし、私も幼少期は少なからず、同様に周りに迷惑をかけていたのだから、また、これから結婚し子供を持つと、迷惑をかける予定なのだから寛容にならなければならないと思うが、人間なかなかそうはいかないのである。ちなみに私は幼少期、全くもってうるさくなかったらしい。両親に愛されていたのだな〜。

 私がここで言いたいのは、子供のすることだから大目に見ようということではない。また、うるさい子供を断罪しようということでもない。私が読んだ新聞記事にも書いて言いたように、

相互に相手のことを思いやる努力をしよう。

つまり、配慮をし合い、住みやすい環境を作る努力をしようということだ。記事によると、保育園の経営者が、地域住民を巻き込んだ園内バザールを開催したり、農業体験をし、地域住民の方に子供たちと面識を持ってもらうことにより、保育園に対する騒音のクレームは少なくなったという。とてもいいことである。地域住民の方々は子供達や、その子供たちの面倒を見ている教員と顔見知りになることにより、”赤の他人”から関係地が上昇し、子供達サイドからすると、無愛想なおじいちゃん、おばあちゃんが飴をくれる大人になるということだ。お互いに全く知らないという状態ではなくなり、攻撃する可能性が少なくなることは間違いないのである。

 結局この例は、”騒音”を作り出している側が、相互理解の場を作ったということになるが、いつもこういう機会があるわけではない。例えば私がうんざりしてしまった電車内において、親御さんはスマホにへばりついていて、子供の方に全く目をやっていなかったわけだが、最近こういう親御さんが多く、20年前の子育ての形とは全く違っており、相互理解を行うことは難しくなっている。これから子育てをする私にとって、今はありえないと考えている”電子機器を存分に利用した子育て”はおそらく100%避けることができないわけで、それを想像して歩み寄る必要があるわけだが、その想像が全く無意味になる可能性があるくらいの速度で科学技術が進歩していたりする。とはいえ、私がその電車の親御さんであれば、手を繋ぎ、車窓の景色を一緒に見て様々な会話をすることにより”騒音”を軽減するのだろうが、その話し声に噛み付いてくる人もいるのだろうな...。

 とにかく、相手の立場になって考えてみることは我々が1人で生きることのできない社会的動物である以上、必要不可欠であるし、また泣き叫ぶ赤ん坊に対して「可愛いですねと、いつもお疲れ様です。」と言う心の余裕を持てる人間であり続けたいものである。というのは格好つけすぎだろうか?

騙す人と騙される人

世の中には騙す人もいれば騙される人もいる。

 皆さんは誰かに騙されたことはあるだろうか。それとも騙したことはあるだろうか。最初のフレーズを目にして私がすぐに思いついたのはオレオレ詐欺である。今は母ちゃん振り込め詐欺だっただろうか。簡単に仕組みを説明すると、電話をかける役の”かけ子”が手当たり次第に「おれおれ、事業に失敗しちゃって、お金が必要でさ」などと電話をかけ、それに引っかかった方から大金を奪うというものである。最近はマイナンバーなどでもっと手口が巧妙化されているようだが...。

 ここでよく起こる議論として騙す方が悪いが、騙される人も自衛という観点で悪いのでは?ということである。そんな単純な手口に引っかかるなんてバカだな〜というニュアンスが含まれているのだろうが、この考え方に対してもう少し拡張して文句を言いたい。

 ここで、なぜ自衛をする必要が出てくるのかということがまず議論したいところである。それは明確で騙す人間がいる。またはその手口に引っかかる可能性があるからである。火のないところに煙は立たぬを応用して、"原因がないところに事象はなく、事象がないところに対策はない"のである。ことを考えたときに騙した人間や第三者が自衛をしないことが悪いと石を投げるのは「頭大丈夫ですか?」と思い切り噛みつきたい事態である。もちろん「お前も関係ないじゃん」と言われれば何も言えないので、もう少し日常的なことに拡張してみる。

言い方が悪いとか言ってくる能無し

 こういう反論をする人は、たくさんいるし、個人主義が台頭し、無意味なハラスメント根絶主義が蔓延してきた世の中ではこう感じ、それを攻撃の手段として乱用する人が増えることは間違い無いのであるが。どうだろうか。先の話に一つ一つ置き換えていくと、”自衛”にあたる部分が”言い方を考える”で能無しにとって”言い方が悪い”ことは”騙されること”。そして”騙すこと”は”能無しの能力が足りず、指摘せざるを得ないこと”になるだろうか。とするとスッキリするし、今まで上記の”言い訳”という言葉のナイフを使ってきていた能無しはギクっとするのでは無いだろうか。ここでギクっとできている人は救い用があるのだが...。この事象においてはもう少し複雑で能力がないこと=悪ではなく、エセ個人主義者からすれば能力がないことは=”指導能力が足りてない上司が悪い”と変換され、悪の定義が定まらないことが難しさを生み出している。面白い。これは日本の未だ蔓延る、しかし、私が将来甘えさせていただこうと思っている終身雇用制度の弊害なのであるが、この話は少し置いておいて、つまり私が言いたいことはこういうことである。

事象の原因をつくっているものがそれへの対策を講じているものに対して攻撃するな

ということである。もちろん正常な監視体制、自浄作用、上司がバカだとエスカレートしていわゆるブラック企業になってしまうのであるが。各個人の問題を指摘されている際に相手のしかも本筋でないことを指摘し”自衛”するのは小学生までがやることであって、いい歳こいた大人がやることではないと私は思う。私が紹介した事象だと、多少、言い方がキツくなるのは

  • 何度も同じミスをしている。
  • ミスの程度があまりにも酷い。
  • 急を要する場面のため言い方がキツくなった。
  • 指摘する人が個人的理由でイライラしていた。
  • その上司に嫌われている。

という原因が考えられるが最後の二つ以外は攻撃する必要なくないか?イライラしているのだなとわかるくらい普段と違うのであればフォローしてあげれば良いし、嫌われる理由があるのであれば改善すればいいのではないか?少なくとも”指摘が必要な状況を作ってしまった”あなたに”原因”があるのであって”言い方が悪い”という事象はあなたが原因を作っていなければ発生していないし、”言い方が悪い”という事象はその上司、またはそのまた上司が対策を講じるべきことであり、エセ個人主義者のあなたの仕事ではない。むしろそこに反撃するあなたにする必要のない仕事をして偉いねという皮肉を豪速球で投げてあげたくなる。

 つまり何が言いたいか。「騙される方が悪い」そんなことは当事者はわかりきっている。それを我が物顔で、物事が見えているような顔でいう人たちが可哀想で仕方がないということである。とか言っている私も暇人で可哀想なのかもしれないが..。

最近面白いと感じたこと。

日本一接客態度の悪い居酒屋

 あるYouTuberのショート動画で紹介されていた居酒屋である。その名の通り全くもって酷い接客をする居酒屋で、求められるサービスの質が飽和状態であると感じていた私は衝撃を受けた。皿を大きな音を立てて置いたり、お会計を求めたら店員がタバコを吸い終わるのをフルで待たされたり、踏んだり蹴ったりである。特に私は、接客サービスの質を追求する個人経営の居酒屋アルバイトをしているため、その衝撃は大きい者であった。

 ただ、一過性のものであったとしても、ある程度話題になり、客は来るだろうと感じた。動画を拝見したところ、料理の内容自体は良かったり、可愛い女性店員がいたりしたというのもあるが。今までにこのコンセプトの居酒屋やサービス業は無かったと思うので目から鱗コロンブスの卵である。

 ここで、なぜ私が面白いと感じたのかであるが、この”日本一接客態度の悪い”という係数は様々な要素に応用できるということだ。例えば”世界一接客態度の悪いホテル”とかである。結局されて嫌なことの線引きはお客様によって違うためその個々の反応を感じ取って接客をする必要があるが、たかだかバイトの能力、責任感でそのラインを判断するのは圧倒的リスクであるため、ある程度のコンプライアンスを決定する必要がある。そのラインによっては定型的な接客に終始してしまうため、よっぽどのドMのお客様でない限りリピートされないと思うが..。

 このリピーターの獲得が難しいとの予想がされる中で、提供する商品のクオリティが高いのはかなり戦略的だなと感じた。というのも、対外的なテーマは”日本一接客態度が悪い”ことであるが、本質的には、美味しい料理、飲み物があることを認知してもらうための手段として、目を引くテーマにしているのである。接客態度に対してのリピーターが少なくても料理に対するリピーターの確保はテーマに興味を持って一度でも店に来てくれるとできるという算段だろう。と考えるとなかなかの策士である。このことに(本当に狙いかどうかわからないが)気づかない、ただ流行りに乗ろうとする人たちは、接客態度も悪い、提供する商品も悪いということで上手くいかなかったり、大問題が発生するんだろうな〜。という点も作戦のうちかもしれない。

 とにかく、改めて、ビジネスチャンスはどこにでもあり、目的と手段の掛け算をいかに巧妙にするかだということがよくわかる。プライドの高い2番手くらいの人に仕事を頼む際、「奢るから。」ではなく、「1番手のあいつもわからんって言ってたんよな〜。」という方が動いてくれるのかもしれない。

エセ欧米化

 皆さんがよく使う・よく聞く言葉は次のうちどれだろうか。

どれも我が物顔で自称リーダーや意識高い系の痛い人がよく口にするイメージである。

多様性

 皆さんはこの言葉を聞いてどんな場面を思い浮かべるだろうか、私は寮に所属していたときの会議の際、何度注意しても遅れてくるT大生がいたのだが、その人はこう言った。「時間を守ることを大切にする価値観はお前の勝手やけど、俺は自分の時間を大事にする方が大事やねん。」と。私は面白いやつやな。と思った。私はそんなに優しくはないので、彼が社会に出るまでにその社会一般的にはまだ通用しない”価値観”を直してあげようとは思わず、3回目の注意以降放っておいたが、ある会議の日、普段おとなしい同期の人が「多様性と未熟さは違う。」と言い、この言葉は今世紀最大の発見となった。このフィクションにおける価値観だけでなく、普段、皆さんはこのT大生のように自分の価値観を相対化せず、わがままになっていないだろうか。コロナの蔓延を追い風として飲み会廃止論を唱えてみたり、みだりに”喋りかけられない美容院”に高評価を押したりしていないだろうか。自身の信念なのか、単なる甘えなのか、一旦立ち止まって考えてみてもバチは当たらない。

 この”多様性”がよく言われるようになったのは2000年に入ってからだと思う。というか2000年生まれなのでそれ以降のことしか知らない。が、おそらく、同性婚性的少数者についての事案が増えたことによる影響が大きだろう。これに限らず、自身が枠にきっちりと収まらないとき、あなたは新たな枠組みに妥協していないだろうか。日本社会の長いものには巻かれる文化に甘えて、現実から逃げていないだろうか。確固たる信念、軸があれば枠組み自体必要ないというのは私の傲慢さ故だろうか?今一度自分に問い直してほしいものである。

個人主義

 多様性の内容に被る部分もあるが、これに当てはまる例として、”仲間意識の欠如”があるような気がする。例えば、上司が「君、この時間に今日の仕事が終わっているのだったら、できるところまででいいからこの仕事もやってくれないか。できるだけ早く完成させてほしいんだけど、どうせ明日することになるし。」と言われたとする。

ケース1

「私の今日の仕事は決まっており、明日の仕事は明日します。」

ケース2

「わかりました。」と言って帰宅時間まで仕事を行い80%完成し、あと1時間あれば終わるがやらずに帰る。

ケース3

1時間残業になるが、完成させて帰る。

ケース4

月給制でボーナスの査定に対して関係ないから上司に上記のことを言われることを見越して帰宅時間ちょうどに今日の分の仕事を終わらせるようにする。

ケース5

サービス残業する。

社会経験の乏しい私はこのくらいの場合分けしかできないのであるが、昨今の情勢的にケース5はを選択する人はいないと考えてもいいですか笑。ぶっちゃけ状況によるというのが答えではあると思うが、父の愚痴を聞いていると、ケース4はかなり少なく、ケース1が多くなっているらしい。もちろん残業させない方針の会社であれば管理責任が問われるため、上司が許さないことは多いが、ケース1はどうなのだろう。どれだけ大量に仕事をこなす能力があったとしても、現在の日本企業ではボーナスもたかが知れているし、ワークライフバランスを重要視したいなどと戯言を吐く新入社員も増えているのだろうが、”将来の自分への投資”であったり、”自分が働くのは会社の利益のため”のような考え方はないのだろうか。エスカレートしたらブラックになるというしょうもないツッコミはやめていただきたい。勝者の理論かもしれないが、”ブラック”であることを理由に会社を離れる人はえてして能力が低い場合が多いと、信用できる情報筋の人が言っていた。社会人経験が少なくてもそのくらいは私にもわかる。某米国が個人主義で成り立っているのは”働く”だけでなく、利益を生み出したことにお金をもらえるからではないか。日本のように”ポテンシャル採用”でなく、技術、知識、人脈に対して。つまり”個人”として社員を評価しているわけであり、日本はホットケーキを構成する1粒子としてしか個人を見ていないわけで、まったく違う性質の考え方を社会に出たばかりのひよっこが鬼の首をとったような顔で主張するのはおかしいと思う(私も気をつけなければ..)。

ブレインストーミング

 でました。私は高校の情報の授業で初めて教えられ、その後インターンでの会議などで行われることが多かったが。無理無理!皆さん。自信が置かれている環境について考えてないもの。これは結構断言できるかもしれない。インターン先に某K大出身者とかT大出身者の方が多くいたが、気持ちばかりの週次のブレインストーミングの時間で髪を切った話しかしていない。無理なのだ。目的を理解していないし、それを達成する能力も今の日本社会では育たないのだ。同じ立場の他者から反対意見をリアルタイムで面と向かって言われる経験を全くしていないのだ。大学の授業でもオンデマンドの方がよっぽどマシな一方通行の対面授業ばかり、先は長いぞ。という意見も否定しないでください。ブレインストーミングというテーマなのでww。

レディーファースト

 この言葉は奇しくも多様性、女性の社会進出の話題の”せい”で聞かなくなってきましたなぁ。小学校の時に同級生の女性にこの言葉を言われた際、「じゃあ、今すぐ淑女になれや。まぁ淑女はそんなこと言わんやろけどな。」と言ったのが懐かしい..若気の至りですが。私のブログを読んでいただいている人はご存知の通り、”弾除け”ですね。女性が男性の前に例えば建物に入る際、中にいる不成者から襲撃を受けた際、身代わりになるというような。現代風にいうと”女性蔑視的”な表現をあたかも特権のようにして使っていたんですな〜。オモロっ!

マイノリティの尊重

 皆さん触れることを避けてきたがゆえに、今多くの問題が起こっている。集団強姦した男性が、後に心は女性と言い張り、女性刑務所に入ったり、”優先”座席をあたかも”専用”座席であるかのように振る舞ってみたり。はっきり言ってこれは私たちの親世代の負債だし、私個人はなんとかしてこの歪な状況を打破したいと考えているが、現実はそう甘くない。制度化するにはどうしても一般化が必要だからだ!というか皆が少しずつ常識に沿って配慮さえすれば一瞬で解決するのだけれども、皆さん常識ないですもんね!配慮って言葉は自信がないことに変換されますもんね!

 とか極論をほざいてきたわけだが、結論、もっと頭使った方がいいよということである。皆さんもお分かりの通り、私はこの極論を書くために”勉強はできるかもしれないが、頭の悪い”T大生、K大生しか出演させていない。頭の悪い人はこれで一般化してしまう。”塾ありき”の学歴社会と”エセ欧米化”を助長するSNSの発達のせいでどんどん頭の悪い人は増えていく。ということは頭を使える人はマイノリティになっていく。頭を使える人が勉強だけできる人に「もっと頭を使ったら?」ということが。”未熟さ”と判断される日もそう遠くない。

私がブログを書いて何をしたいのか。

 そういえば書いてなかったと思いまして、暇なので書きます。

 

始めたきっかけ

 私がブログというなの日記というか、Twitterより発信性が劣ると自分で勝手に思っている媒体で思想を発信し始めたきっかけは友人にある。その友人は某有名大学で、自己顕示欲とプライドが高く、無意識に優生思想を抱えている厄介で愛すべき友人であるとかいう私もプライドが高いとよく言われるが..(2023年6月くらいに大事件が起こり距離を置いているのはまた別の話)。その彼が、私の思想をある程度評価してくれて彼がブログで某有名大学という肩書をフルに活用して発信しているということもあり、リスクと自分が得られることを天秤にかけて始めたわけである。勘違いしてほしくないのは、私は彼のことを嫌っておらず、信頼関係の上で罵詈雑言は成立しているということである。

当初の目標or目的

 私の掲げていた目標、目的は(あんまり目標と目的の意味の区別はついていない)

目標

  • 文章構成能力が上がればいいな。
  • 私の思想をいい感じで修正できたらいいな。
  • 1人でも感情を揺さぶれたら最高だな。
  • (少し欲を出して)1円でもお金がブログで稼げたらいいな。

といったもので。

目的

  • 自分の思想の言語化、整理のために文章を書こう。
  • ルーティーンワークとして生活リズムを整えよう。

といったところである。以上のように”発信”することにそこまで積極的ではないため、友人のように肩書を利用して一定の読者層をゲットするということや特定のキーワードを使うことで釣ることはしていない(この間、大谷という名前を記事に入れたところ平均の20倍の人がクリックしてくれたことには驚いた)。というのも、私は誰が言ったのかではなく、何を言っているのかをできるだけ偏見なく吸収したいと思っており、その姿勢に肩書を利用することは合致しないと考えているからである。

”皆さんの人生に少しの砂利を”

をモットーに、自分自身と皆さんにとって些細なことを考えるきっかけになることができればなと思っていたりする。

実際始めてみてどうか

 危険だなと思ったのが正直な感想である。私は目的を”発信”としていないが、こだわりたくなる仕掛けが随所にある。

  • 閲覧者数
  • 読者数(チャンネル登録者のようなもの)
  • いいね数(有料いいねもあり)
  • ランキング

私は日記、備忘録として書いているのでYouTuberのようにいわゆる数字を気にすることはないだろうと思っていたが、どうしても気になってしまうものである。理由は簡単で、自信がないから他者からの評価に依存してしまったり、1回不覚にも評価をいただいてしまうと本能としてより高次の達成感を得たいと思ってしまうからである。自身の文章力の成長のために他の方の記事を何度か眺めたことがあるが、最初の方が文章は下手だが、思いがストレートに伝わってきて面白いなと感じることが多い。最近のものになればなるほど、数字を気にしてしまって読みにくいレイアウトになったり、広告が多かったりしている傾向がある。悲しいことである。

 それと、私の性格なのか、基本的にネガティブな内容になってしまうことが多い。対外的にはポジティブであるが、本来はネガティブなので、本当の自分が出てしまっているのかもしれない。あと、ブラックジョークやエッジの効いた皮肉が大好物なので攻撃的な内容になってしまうのかもしれない。私自身は記事を書いている最中、攻撃的であったり、ネガティブな感情で記事を書いているのではなく、ただ自分の中での事実を書き連ねているだけなのだが、後で読み返してみると「これを読んで1日頑張ろうとはならないな。」と苦笑している。みなさん嫌な気分にしてしまってすいません。もちろん皮肉である。

最近の思惑

 私は恵まれている。思考が深い友人が多く、今のところ友人としてお付き合いしてくれているので、そういった人たちとただただ自分たちの思考を蒸留するためにこういったブログを書き合いたいなと思っている。みな医学部とか、某有名国立大学とかに行って将来稼ぐことが運命付けられているけれど、優秀が故に周りに言えない思想があるのではないかと。コンプラ重視が叫ばれているこの世の中において、さらに若気の至りを許さないこの世の中において、極論を吐いて、ああだこうだできる環境は必要だと思っている。その”憩いの場”を私に近い場所でだけでも作ることができればいいなと、そして1人でも同じ考えを持つ人ができれば違うコミュニティにも広まっていくのではないかと、こんなに嬉しいことはないなと思っているのである。

 力を入れすぎないようにしている。だいたい2000文字の記事を書くのに30分くらいかかり、それを校正していると2時間くらいかかる。ので校正の手順は申し訳ありませんが省いている。理由は単純で私の目的が習慣化であるからである。だいたいどこにでもどこかに至らない点を見つけて突っつきたい人がいるが、残念ながらその攻撃は私に一切効果がないので、時間の無駄である(笑)。

それでは今日もあなたの靴の中の小石になれるように頑張らずに書いていきます。

ごきげんよう

 

2.母の偉大さ

人間失って初めて気がつくものである。

 何事にも言えることではあるが、人間大切なもの、ましてや当たり前のものを失って初めてその存在の価値を認識するバカな生き物である。1.父の偉大さに続き、母の偉大さについて皆さんは言語化するのが恥ずかしいようなので私が代表して言語化しようと思う。

母の偉大なところ

  • 私を生んだこと。
  • ここまで私を育て上げてくれたこと。
    • 掃除洗濯、弁当作り、毎日の献立、話し相手として。
  • 様々な情報が蔓延る中で、真っ当な女性像を示してくれるところ。
  • いつでも味方でいてくれるところ。
  • 利害関係なしに怒ってくれるところ。

他にもまだまだたくさんあるが、私の拙い語彙で言語化できるのは以上のことである。

・私を生んだこと

 この文字だけを見ると傲慢かもしれない。「お前の偉業は私を生んだことだ!」的な。もちろん私が言いたいことはそういうことではない。私は様々な経験をし、失敗をし、成功し、悩み、喜んできた。が、そもそもこの感情の機微も、経験の元となるこの肉体も、父と母が(母と父が)出会い、私という存在を産んでくれたおかげで成り立つものである。言葉にするのは難しいが、私が存在する、させてもらえていることに感謝しているのである。当時は今ほど子育ては大変だという論調はなかったとは思うが、それでも子供を有無という選択をしてくれたおかげで今の私がある(月並みな表現だが)。ありがとう。

・ここまで育て上げてくれたこと

 実際は幼い頃から、お手伝いと称し、様々な家事をやらせてもらっていたため、その頃から専業主婦の母は本当にありがたいと思っていたが、身に沁みて、本当の意味でありがたさを理解したのは大学に入り、一人暮らしをし始めたときである。一人暮らしのため、放っておけばどんどん部屋は汚くなり洗濯物はどんどん溜まり、水周りは異臭を発し始め、そのせいで掃除が嫌になり...といった悪循環である。良い生活は良い住環境からとはよく言ったものだが、まさにその通りで汚い部屋で過ごすと全てにおいてやる気がなくなる。「俺の部屋勝手に入らんといてよ!」と思春期のときに反発せず、むしろそこに一種の喜びを感じていた変態野郎であったが、それに苦笑いくらいで付き合ってくれたお母さんありがとう。今は頑張って部屋をきれいに保っています。

・食事関連

 本当にすごい、大学に入って遊ぶお金や交通費、交際費などをやりくりするために食費の重要度は下がってしまい、つい偏った献立になってしまうのだが、母親はすごい。私の家庭が一般的なのかどうかはわからないが、1ヶ月同じ夕食が出ることはなかった。それに加えて、朝は6:00、昼は12:00、夜は19:00ぴったりに食事を開始できるように準備してくれるため、生活リズムを崩すこともなく健康的な生活を送る大きな助けとなっていた。部活引退後も同じ量の食事が出てきていたおかげで太ってしまったのは、一緒にダイエットしましょう笑。いつも美味しいご飯をありがとう。

・話し相手として

 私は男の子としては特殊?な方らしく、自分の生活の上で起こったこと、感じたことは包み隠さず母親に話していた。周りから仲のいい親子という判断を頂くことができるという打算が全くなかったというわけではないが、一つのアドバイスとしてよい相談相手である。幼い頃は事実と自分の感情をごっちゃにして伝えたり、自分に都合の良いことだけを伝えるなどして、母が学校に文句を言って逆に怒られるということがありましたね、その節はご迷惑をおかけしました。いつも話を聞いてくれてありがとう。

・真っ当な女性像を示してくれるところ

 最近SNSなどで様々な情報が飛び交っている。有名なのであれば奢る奢られ論争などの"蛙化現象"だろうか。母は言っていた。高いレベルのところに身を置くと高いレベルの人と出会うことができると。女性も歳を取れば”女性”という要素を除いた自分自身の価値がわかってくると。何がなんでもこの人のために時間や資本を使いたいという人に出会えると。そういう人に出会えたらな〜。自分磨きします。アドバイスありがとう。

・いつでも味方でいてくれるところ

 どんなときでもそうですね。子供の頃喧嘩したときも、花瓶を割ったときも、私が嘘をついているとわかっている時でも味方でいてくれました。ただ、何が良くて、何が悪いかをいつでも事細かに向き合って教えてくれました。”どうしてついてもいい嘘があるのか?”という疑問を投げかけたときには夜通し一緒に考えてくれたりして、絶対的なルールのような存在であったけれども、常に子供からも学ぶことを忘れないお母さんは今の私の後輩に対する姿勢の基本となっています。ありがとう。

・利害関係なしに怒ってくれるところ

 めちゃくちゃ怖かった記憶があります。それこそ中学校まではいろんな昼ドラの見過ぎで、嫌われたら捨てられると思っていたし、”怒る”=”私のことが嫌い”と勘違いしていました。全て愛が故、もどかしさが故だったんですね。最近はコンプライアンス重視の社会のせいで怒ってくれる大人の方が減ってきました。礼儀作法を教えてくれる人が減って、両親が教えてくれた”挨拶ができること"ですら私の武器になっています。絶対に店員さんに対して「ありがとう。」とお礼を言う姿をみて私はニコニコしています。いつでも良い見本でいてくれてありがとう。

 

 などとつらつら書き連ねましたが、どうでしょうか。孝行したいときに親は無し。という言葉は皆さん博識なのでご存知でしょうが、行動に移すことができている人はどのくらいいるでしょうか?ありがたいことに父の日、母の日(母の日、父の日)と無理矢理にでも感謝を伝えるイベントはあります。今年何かされましたか?私の両親からすると、元気に生きているだけで十分らしいですが、その両親の感情と、私の感謝したい欲(もしかしたら自己満足かもしれません)は別なので毎年できるだけ2人の喜ぶ顔を思い浮かべて、感謝を伝えるようにしています。

清潔感という罠

 私は生物学上の男であり、世間平均で見ると、高学歴だし、高身長だし、高収入になる予定で、顔も好みはあるがいい男と言われることも少なくなく、本来ならモテる人間である。とか何だか言っている時点でモテないわけであるが、一周目のモテたい欲を持て余す、若年層の男性がいつも困らされている清潔感について愚痴ろうかと思う。

 

 そもそも清潔感という言葉が生まれてしまった理由は何なのか。その理由は一昔前のモテ像を考えることがヒントになる。

少し前のモテ像

  • ワル
  • 男らしさ
  • 肉食性

という感じだろうか、少し影のある主人公の友達がドラマ等で人気があるイメージだったし、大学時代くらいまではヤンキーと繋がりがあるくらいの方がいわゆる一軍女子からの人気はあったような気がする。肉食系も以上のことに通じる要素である。

 もちろん

  • 誠実さ
  • 実直さ
  • 一途さ

を持つ男性に一定の需要があることは確かだが、恋愛欲一週目の勘違い女子からすると魅力があるようには見えず、二週くらいした後の結婚願望に振り回され始めた女性からのニーズが強いように思える。ここで誠実、実直、一途な男性はヤリたい盛りの時期に全くモテなかったという経験から自分磨きに対する意欲もそこそこなため結局本原稿の主題の”清潔感”を見に纏うことなく、恋愛市場、結婚市場の表舞台に引っ張り出されるということで、軽薄、上部だけ、浮気者の中身スカスカ男子に勝つことができず、巷の女性は”浮気した/された”とか”結婚詐欺された”などの被害に遭うわけである。悪循環である。

 

 皆さんが今、以上を踏まえてモテない人を想像するとどんな人を思い浮かべるだろうか

  • 根暗
  • コミュ障
  • 男臭い人
  • 真面目な人
  • ボサボサ

くらいだろうか。最初の四つは”精神的な清潔感”がないということであり、最後のボサボサがいわゆる”見た目の清潔感”のない状態のである。

 

 精神的清潔感を身につけるためにはどうすれば良いのか。簡単である。根っからの明るい人であればこの記事を見るまでもないが、そのままで空気を読めるようになっていけば言うことはないだろう。そうでない人は歌舞伎町のホストを見習えば良い。

  • 相手に有無を言わせない物言い。
  • 完全に相手を立て同意する物言い。

のどちらかに特化すれば良い。これらのことは恋愛工学なるものでマニュアル化されていると思うからそちらを参考にしてもらいたい。

 誰でもすぐに始められる見た目の清潔感についてだが、一言で言えば”ムダ毛がない”とか”整っている”になるのだろうか。騙されてはいけないのは脱毛しろということではないということだ。SNSなどの広告ですね毛全剃りとか髭全抜きがモテるために必要条件なように感じている人が多いと思うが、そんなことはない。すぐにスマホなどで調べることができると思うが、男女ともにパートナーに対して脱毛してほしいという人は5割に満たない。ほとんど脱毛サロンと韓流系の策略に過ぎないのである。

 もちろん髭を毎日剃ることや髪の毛をいい感じに整えることは大事だしすぐにできることなので実践すれば良いと思うが、それよりも簡単なことがある。それは「ハンカチを持とう」ということだ。めちゃくちゃ清潔感あるよね〜という評価を受けているメンズの何割がハンカチを常に持っているのだろうか。いや持っていないだろう。清潔感があっても清潔ではないのである。ハンカチを最低一枚持つことにより、夏場、顔のテカリを抑えることができるし、服に飛んだフラペチーノの汚れを少しは落とすことができるかもしれない。清潔感より清潔であることの方が重要ではないか。

 

 日本人は特に一律な教育しか受けていないために自分で取捨選択する必要のある情報に弱い傾向があるのではないかと思う。”(形容詞)感”ではなく本質的な”(形容詞)”を身につけることの方が結局は自分磨きになるのではないだろうか。