maximam271828’s diary

あなたの人生に少しの砂利を

子供の声が”騒音”な世の中。

 最近、新聞で”子供の声”が騒音として扱われているという記事を見た。

 どうやらこの記事によると、公園に住む、子供が近縁にいない人の多くにとって子供の声は耐え難い”騒音”らしい。近くに保育園ができること、児童公園ができることに対するアンケートをとったところ、9割を超えてネガティブな意見が見られたという。軍事基地移設ならまだしも子供の声に対してこういう状況とは、少子高齢化が進むわけである。

 などと善人ぶる気はない。かくいう私も電車に乗っていて疲れ果てているとき、駄々をこねる子供の声に対してうんざりした記憶がある。子供はうるさくするのが仕事だと、個人的には思っているし、私も幼少期は少なからず、同様に周りに迷惑をかけていたのだから、また、これから結婚し子供を持つと、迷惑をかける予定なのだから寛容にならなければならないと思うが、人間なかなかそうはいかないのである。ちなみに私は幼少期、全くもってうるさくなかったらしい。両親に愛されていたのだな〜。

 私がここで言いたいのは、子供のすることだから大目に見ようということではない。また、うるさい子供を断罪しようということでもない。私が読んだ新聞記事にも書いて言いたように、

相互に相手のことを思いやる努力をしよう。

つまり、配慮をし合い、住みやすい環境を作る努力をしようということだ。記事によると、保育園の経営者が、地域住民を巻き込んだ園内バザールを開催したり、農業体験をし、地域住民の方に子供たちと面識を持ってもらうことにより、保育園に対する騒音のクレームは少なくなったという。とてもいいことである。地域住民の方々は子供達や、その子供たちの面倒を見ている教員と顔見知りになることにより、”赤の他人”から関係地が上昇し、子供達サイドからすると、無愛想なおじいちゃん、おばあちゃんが飴をくれる大人になるということだ。お互いに全く知らないという状態ではなくなり、攻撃する可能性が少なくなることは間違いないのである。

 結局この例は、”騒音”を作り出している側が、相互理解の場を作ったということになるが、いつもこういう機会があるわけではない。例えば私がうんざりしてしまった電車内において、親御さんはスマホにへばりついていて、子供の方に全く目をやっていなかったわけだが、最近こういう親御さんが多く、20年前の子育ての形とは全く違っており、相互理解を行うことは難しくなっている。これから子育てをする私にとって、今はありえないと考えている”電子機器を存分に利用した子育て”はおそらく100%避けることができないわけで、それを想像して歩み寄る必要があるわけだが、その想像が全く無意味になる可能性があるくらいの速度で科学技術が進歩していたりする。とはいえ、私がその電車の親御さんであれば、手を繋ぎ、車窓の景色を一緒に見て様々な会話をすることにより”騒音”を軽減するのだろうが、その話し声に噛み付いてくる人もいるのだろうな...。

 とにかく、相手の立場になって考えてみることは我々が1人で生きることのできない社会的動物である以上、必要不可欠であるし、また泣き叫ぶ赤ん坊に対して「可愛いですねと、いつもお疲れ様です。」と言う心の余裕を持てる人間であり続けたいものである。というのは格好つけすぎだろうか?