maximam271828’s diary

あなたの人生に少しの砂利を

言葉を遣うということ

 こんにちは今回は言葉についてダラダラタイピングしていこうと思う。

そもそもなんでこのようなテーマにしたのかということだが、あるとき私が友人に

 

「今の現状は〜」

 

という発言をした際、「それ”トートロジー”やで」と我が物顔で突っ込まれたことを思い出したからである。この場面はある重要な会議を行なっている最中であり、会議の本質ではなかったためムッとしたのであるが、そこで感情をあらわにすることの方がより本質からずれることになるし、そこまで気にすることではないのでスルーした。

 

 昨今”違和感を感じる”や”車に乗車する”などのいわゆる「頭痛が痛い」という言葉が流布しているように思う。一昔前までだと、言葉遣いなっていないだとか、教養が低いといわれることがあったが、皆さんはどう感じているだろうか。

 

 さらに、英語の試験などで、何かの英作文を書いたときに減点の理由としてそのような単語の使い方はしないであったり、前置詞や副詞の用法のミスでということがある。英語に関してはネイティブではないのでこれ以上言及するのは避けたいが、言葉遣いを”ミス”するとなぜいけないのだろうか。

  • 正確に相手に意図が伝わらない。
  • 読み手、聞き手にとって不便である。

などの理由が挙げられると思う。これは当然のことである。自身の常識と相手の常識は絶対に一致はしないためよりオフィシャルな言葉の用法を求められることは仕方がないのである。また中には冒頭の友人のように、言葉に引っかかってしまし内容に対しての集中力が失われてしまうこともあるのではないか。

 

 ただ、私はこう言いたい「言葉は流動的であり、コミュニケーションの本質は伝えることである。」と。流動的であることの例として古いかもしれないが恋人同士であることを指す言葉で、”アベック”→”カップル”という変遷を今思いついた。完全な偏見であるが今50歳くらいの人はアベックを用いて「それ死語だよ」と突っ込まれている印象がある。しかし、そのツッコミをしている時点で今で言う”カップル”を指した言葉を言っていることは理解できているのではないか。そのツッコミによってコミュニケーションのリズムが崩れることの方が危険であると思う。

 

 頭が痛いことが伝わればいいし、車に乗ることが伝わればいいのだ。馬から落ちたことが伝わればいいのだ。瑣末なことにめくじらを立てるような小さい人間になりたくないという思考を私は考える。